ドブ川見ながらカプチーノ

主張したいことはないです。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

僕の怒り新党



その1

舞台劇の終わりに、演者が全員出てきて手をつないでカーテンコールすることに腹が立ちます。

そこでは主人公から悪者から劇中で死んだ者から全員出てきて笑顔で挨拶するでしょ。あかんやん。
おい悪者、さっき主人公殺そうとしてたじゃん。なに笑顔でのうのうと出てきてんだよ。おいさっき死んだやつ。お前ハツラツと挨拶してんじゃないよ。全然元気じゃんか。

もうね、一気に気持ちが冷めるんですよ。夢の世界がポシャンと終わるような感じ。そっか、あんだけイガミあっていたけど、実際は演技だったんだね。舞台から一歩降りると、みんな仲良いんだね。ってなる。せっかくの余韻がとられた感じになる。

もっと言うと、劇によっては主人公の少年期、青年期、老年期と演者がそれぞれ変わる時があるでしょ。その3人が一同に会して手をつないでいたら、時空歪むよね。え?主人公が?いっぱいいる?と混乱する。カーテンコール、誰が得するんだろうね。これも演者側のオゴリなのではないだろうか。

悪者であればあるほど、「俺、めっちゃ主人公に悪いこと言ってたけど、あれ台本にあっただけだから!実際はそんなこと全然思ってないから!」とでも言いたげな笑顔みせるよね。プロの演者なら、観客から物投げられるくらい役に徹しろよと思う。


その2

吹奏楽の定期演奏会とかで、アンコール用に曲を別枠で設けていることに腹が立ちます。
アンコールとはそもそも、本編で演奏した曲の中で一番観客の反応がよかったものをもう一度演奏することでしょう?

それなのに、本編とはまた違った、アンコールありきで事前に準備していた曲を演奏するのは、演奏する側の傲慢でしかないと思います。全然違う曲を演奏するんだったら、最初から本編に組み込んでおけって話ですよ。

例えば、ゲオが期間限定でレンタルDVD一本50円のキャンペーンをやったとする。
その期間が終わった後に、客の反応が良かったために「好評につき、お客様のアンコールにお応えします!」と言って、レンタルCD一本100円のキャンペーンをやったとしたら、全然アンコールにお応えしてないやんってなるでしょ。同じことをしてこそのアンコールなのですよ。

しかしながら、同じ曲をもう一度演奏するというのもあまり芸がありません。
やるからには違ったテイストの曲を番外で演奏したい、という気持ちも分からんではない。演奏側の気持ちを汲みつつ、アンコールについてもう一歩進んで考えてみましょう。


話に聞くと、本当はアンコールに応えるつもりはなかったんだけど、観客のアンコールがあまりに熱いので、急遽演奏する予定になかった練習中の曲を楽譜無しで演奏するということもあるらしいです。これはいいですよ。演奏側と観客側が一体になっている感じがするよね。熱いライブですよ。

本編が全部終わった。演奏側も全力を出し切って舞台からはけた。だけど「まだ聴き足りない!お願い!もう一度聴かせて!」と観客が歓声をあげる。その熱い声に演奏側が心揺さぶられて「お前ら最高だぜ!仕方ねぇ、特別にもう一曲演奏してやるぜ!」そういった経緯でアンコールに違う曲をぶつけるのはアリですね。何も問題がない。

僕が問題にしているのは、「どうせあんたら、アンコールするんでしょ?」とでも言いたげに、舞台袖から再登場してきて、しれっとした顔で本編の延長のような曲を演奏する姿勢です。これはオゴリ高ぶっていますよ。お前らアンコールのために本編で余力残してんじゃないよと思う。

もっと言うと、フィギュアスケートのエキシビションも、ある種アンコール用に予め用意した曲を踊っていると言えなくてもない。けれども、ここが重要なのですが、エキシビションは上位入賞者達しか出られないわけですよ。つまり、己の力で勝ち取った末のエキシビション用の曲なのです。観客がどうこうじゃなく、自分たちが頑張ったから踊れるわけ。

そこにはオゴリは一切存在しない。「自分は勝てる。絶対勝つ」という信念のもと、エキシビション用の曲を用意する姿勢はとてもポジティブです。いやらしさがない。最後に楽しく踊れるように頑張ろうとすることは筋が通っています。

甲子園球児も、甲子園で勝った後に歌えるよう校歌を練習してたって、全然いやらしくないでしょ。むしろ、絶対校歌を歌うぞ!という強い気持ちでプレーしていて欲しいくらい。

そう考えるとですね、観客のアンコールありきで別枠に曲を用意していることはとても腹立つんですよ。なんだ、エキシビションのつもりなんか。いやいやいや、アンコールって礼儀みたいなもんで、どんな演奏でも最後には観客が必ずアンコールするでしょうよ。だったらそんなにカッコつけて違う曲を設けなくてもいいんでないの、となる。

結論です。
原則、アンコール用の曲を別枠で用意せず、アンコールを受けたら本編で反応が良かった曲をもう一度演奏する。例外として観客の熱い歓声に心揺さぶられた時だけ、特別に即興で違う曲を演奏する。一番最悪なのは、アンコールありきで先回りして曲を用意して演奏すること。演奏側は自意識過剰になったらいけません。



  1. 2014/06/01(日) 00:20:47|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

感情で遊ぼう




遊園地には寂しさの要素が足りないと思うのですよ。

なぜディズニーランドは世の女性を虜にするのでしょうか。
なぜ女子会で「彼氏にランドに連れて行ってもらった」と報告すると他のメンツよりも
気持ち上に立つことができるのでしょうか。なぜティンバーランドは大学生に人気なのでしょうか。

それは、遊園地は人間の感情を呼び起こさせるようにできているからです。

人間には「喜怒哀楽」という、血液型占いのようなざっくばらんな感情の分け方がありますが、人気の遊園地はこの全ての感情が発生するようにできています。

社会で一人前に生活するには、理性で感情をコントロールすることを第一に要求されます。人前で感情を出すな。感情的に物事を考えることは恥ずかしい。純情な感情は三分の一だけにしろ。しかしながら、いつも100%理性的であり続けようとすると人間はいつか潰れてしまいます。遊園地では、こうした日常で抑えられている感情を解放させる場として人気なのです。


それではどのようにして遊園地は来園者の感情を引き出しているのか?
順に見ていきましょう。

まず「喜」ですが、これは遊園地に辿り着いた時点でクリアしています。
やっと着いたぞって。
やっとの思いで討ち取った敵将の首級を上官に見せるときはワクワクしまよね。
それと同じで、一日パスポート券を係員に誇らしげに示した時に喜びは最高潮に達しているのです。

次に「怒」ですが、これは「園内の人多すぎ!」ですぐにクリアです。
人気のアトラクションは平気で2時間待ちの行列とかありますからね。
人間は待つことによって一番ストレスを感じる生き物ですから、
あみん なんかは胃に穴を開けながら恋人を待っていたことで有名になった歌手です。

そして「楽」があるのは遊園地なんですから当たり前ですよね。
去年の冬に僕はスノーボードをやり始めたのですが、どうして人間はたかだか「雪の上を滑る」という単純な事をしただけで、こんなに楽しい思いをしなければならないのだろうと思ったことがあります。地に足をつけて歩く以外の方法で動くだけでめっちゃ楽しいなんて、その単細胞ぶりがむしろ悲しくさせます。

遊園地でしこたま遊び、夢のような時間が永遠に続くと思っていたがそこは儚い願望。
夕日が落ちて帰りの新幹線の時間を気にするようになってから人は最後、「哀」しくなるのです。夜になり、昼間の体力がすっかり無くなってグッタリしている頃にふとトイレの鏡を見ると「なにミッキーの耳なんかつけてはしゃいどんねん」と自分を客観視して哀しくもなります。

このように、遊園地には様々なシチュエーションで人間の感情を揺さぶる要素が含まれています。ですが、ここで一つ疑問が浮かびました。

人間の感情には間違いなく「寂しさ」というものがある。
全ての感情を解き放つ場にふさわしい遊園地にこの「寂しさ」が足りないのではないか?と。

そこであえて、誰もがめっちゃ寂しくなれるアトラクションを作ったら、完全無欠の遊園地として絶大な人気を得られるのではと僕は考えました。

例えば、体育館のような大きめな無人施設をつくり、はじっこの方にパイプ椅子を置いておいて、そこに座ってもらうとかね。これめっちゃ寂しいでしょ。誰も居ないだだっ広い空間に、
自分一人がずっと座っているだけのアトラクションですよ。泣ける。

その他で考えられるとすれば、「寂しいバッチ」を胸につけているだけで、
園内のスタッフ全員に話しかけても無視されるアトラクションとかね。
あんなに笑顔に他の客を誘導しているスタッフが、自分にだけ冷たいんですよ。
めっちゃ寂しいですやん。


しかし、いくら「寂しい」をテーマにアトラクションを考えても、なかなか心を揺さぶるような「寂しい」を見つけることはできませんでした。

こうなったら現場に行って実際に見て来た方が早いじゃないか。
そう思い立ち、先日の休みに近所の遊園地に行ってきました。

はてさて、どんな「寂しい」が見つかるのか?

ほうほう、やはり晴れているだけあって人が多いですね。
あそこには親子連れがいるよ。子どもがはしゃいでいるね。

ふむ、ゴールデンウィークだからか、カップルも多いなぁ。手つないじゃって。あれま。
むむ、修学旅行でやって来ている集団がいるぞ。友達同士で遊ぶと楽しいんだよなぁ。

みんな楽しそうだなぁ。みんな、そうか、みんな。みんなはみんなで来ているのか。

・・・。

一人で遊園地来るんじゃなかった。めっちゃ寂しい。


  1. 2014/05/18(日) 22:03:06|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

個性としての笑い声







例えば、インターネットをしててよく見かけるのが、

「wwwww」

という、フレーズなんだけど、これは何かに対して笑っている時に使うものじゃないですか。
(笑)の「わらい」が省略されて最初の「w」だけが残ったという説もあれば、
「w」がそもそも笑っている人の口元のようだからという説もあるし、
ピラミッドはそもそも墓なんかじゃないという説もあります。

インターネット上の文字媒体で人間の感情をどのように表現するのか?というのは永遠のテーマなのです。
「テメー、ふざけんなよ」このセリフを笑って肩パンしながら言えば、受け取る側も冗談だなと簡単に分かるのですが、
メールという文章だけの世界でこのセリフを使ってしまうと、場合によっては「本当に怒らせてしまったのでは?」と正しく感情の
疎通が取れないことがあります。
「テメー、ふざけんなよ。わしゃオードリー・ヘップバーンか!」このぐらいまでしないと、
文字だけで冗談を冗談だと相手に伝えることは難しいものです。


そもそも、文字という限られた中で、相手に自分の感情を正確に伝えろとは贅沢な注文です。
どうすれば「笑ってる感じ」を演出することができるか?先人達は頭をひねって考えました。

手塚治虫は、何も音がしないという効果音「シーン」を発明したことで知られていますが、
それと同じくらい困難なことです。かぐや姫が貴族に課した条件並みの無理難題に立ち向かい、
長い年月をかけて、ようやくたどり着いた答えが「wwwww」なのです。

しかし、現代の僕達はそれに甘んじて、何の疑問もなく「wwwww」を使っているわけだけど、
はた、と立ち止まって考えてみる。果たして、それでいいのか?笑い声が、そんなんでいいのか?


なぜそう思うようになったかというと、この前、踊るさんま御殿を観ている時に
「笑い声がデカい奴ほど、場の中心にいる」ということに気付いたんですよ。

明石家さんまの笑い声なんかその最たるものですが、彼は「アァー!アァー!」というハイトーンで笑うじゃないですか。
あの笑い声を聴くだけで何故かこっちも笑ってしまう。引き笑いの引き寄せ笑いですよね。

笑い声が面白いのは一つの才能です。なぜなら人の笑い声は兄弟でも全く違うものだから。
笑い声は個性の象徴なのです。

世界中探しても、自分と同じ笑い声の人はいないのです。
「だはははー教壇に立っておしっこするじょー ジョジョー」と笑う人もいれば、
「クックック・・・最初の遊びの段階で止めておけばよかったものを・・・」と嗤う人もいるし、
「フン、藤木くん、君はいつだって卑怯だよ」と哂う人もいる。

人の数だけ笑いがあるというのに、簡単に「wwwww」だけで統一していいのでしょうか。
「w」の数が、笑いの大きさを表してる、なんてシレーっと言っていいんでしょうか。

「wwwww」ってのは、車のクラクションと同じなんですよ。
老若男女、誰が押しても、いつ押しても、同じ音、同じ大きさでクラクションは鳴るわけでしょ。
違うのは押す長さだけであって、あとはみんな同じ。それと「wwwww」は変わらないのです。

笑い声が、車のクラクションと同じわけがない。そうなんです。そこにみんな気付くべきです。
笑い声は人の個性。しかしながら、インターネット上では「wwwww」という無機質なクラクションでしか
笑いを表現できていない。ここに大きな問題があります。

僕が提唱したいのは、あらかじめ自分の笑い方を文章に興しておいて、ここで笑うぞ!という時に、
コピペする方法なのです。これで、笑い方がクラクション化されることは無くなるのです!



そして、ある日のインターネットの風景


「俺は今日も今日とて電車に乗っていたわけだ」

「うん」

「満員電車だったからモミクチャにされてたんだけど、構わずハンバーガー食べ続けてたらさ」

「うん、モミクチャの満員電車でハンバーガー食べてちゃダメだね」

「電車の揺れでハンバーガーのソースがサラリーマンのスーツに付いちゃったんだよ アァー!アァー!」

「ほら言わんこっちゃない」

「さすがにやばいと思ってさ アァー!アァー!
分からないように手でしっかり拭いておいたけど、べったり股間に跡が残ってたわ アァー!アァー!」

「ていうかサラリーマンの股間をしっかり触ってんじゃねーよ!絶対お前ホモだと思われただろ!」

「アァー!アァー! アァー!アァー!」


  1. 2014/04/30(水) 22:10:54|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ちょっとだけよ



どうやら僕は「チョイ残し症候群」を患っているようです。

俗に言う、あの「チョイのこシンドローム」のことですが、
どういう症例が報告されているかというと「物事の最後のあとちょっと!
の所で全てを放棄してしまう」
という完璧主義者が聞いたら怒りに狂い出す、そんな行動をしてしまうのです。

例えば、友達と一緒に定食屋に食べに行くとします。
友達が納豆定食を注文して、僕はヒレカツ定食を注文する。
ぐだぐだとしゃべりながら食べるわけです。

ほどなくして友達は納豆定食を食べきるのですが、
僕はヒレカツをちょっとだけ残すんですよ。
いや、別に悪気があってちょっと残してるわけではないのです。
「へへへ、ヒレカツなんて残してやらぁ」という心づもりがあるわけではないですし、
雨の日に橋の下で捨てられている子犬を見つけた僕は、「お前も飼い主に捨てられたんだね。
人間を怖がるような目をしている。ふふ、僕もお前さんと同じようなもんさ」と思い、
その日から食卓の余った食べ物を袋に入れては子犬に食べさせているわけではありません。
ただ純粋に、全部食べきれないのです。

これはね、ヒレカツ定食に限った話ではなくて、もっと量の少ない納豆定食を食べても
チョイ残しはしますし、ごはん定食を食べても、ごはんをチョイ残しするんです。

「なんだよお前、チョイ残しすんじゃねぇよ」と友達に毎回言われるんですが、
そんなことは重々承知なのです。僕だって出来るならばチョイ残しなんかしたくない。
何の為に生まれて、何をして生きるのか、答えられないままなんかいたくない。
そう思うわけです。できるならばカバオももらったアンパンを
最後まで食べきりたいと思っているのです。


そう考えてみれば、僕は今までエンディングまで迎えたゲームは
一つもないのかもしれません。

子どもの頃からゲームが好きで、その中でも僕はRPGが好きなんですが、
はたと思い返してみると、RPGでエンディングまでやったゲームなんて無いのではないか。

なけなしのお金を払ってやって手に入れたゲームですよ。
主人公を強くして武器を手に入れて攻略して、
ラスボスまではちゃんと行くけれども、エンディングを観たゲームなんて無い。

これまた「チョイ残し症候群」の話になってしまうんですが、
ラスボスまでいって、あと少しで倒せそう!という気持ちになると、
急にテンションが下がって、ゲームをブチッ!と切ってしまうんですよね。
その情緒不安定さね。好きな人の尻穴を嗅いだ時のように一気に冷める。
だから、エンディングが観られない。

たまに「俺は○○っていうゲームは3周したわ~」っていう人いるんですけど、
もう信じられないよね。どうしてゲームクリアするんだよって思う。
ゲームはエンディングを観ずに売り払うのが筋ってもんだろ。

やっぱりさ、途中までの過程が一番面白いわけじゃない。
いっぱいレベル上げして、いっぱいアイテムとって、ステータスが最高潮に
達した上でラスボスに挑むというあの過程ですよ。

僕の場合はですね、まずラスボスと闘います。そして、最初は余裕で
ボコボコにされるんですよ。そうするとテンション上がりますよね、
「よっしゃ!やってやる!」と嬉しくなりますよね。

そして、しこしことレベル上げ。めっちゃ強い武器防具買って、アイテム揃えて、
もはや、小学生がコントロール握ってもラスボス倒せるってくらいまで強くして、
ゲームをブチッ!と切るんです。はい、終了。僕の中ではこのゲームは
クリアしたことになりました。

だってさ、そこまで強くしたんならさ、わざわざラスボス倒す必要なくない?
どうせ勝っちゃうんだよ、余裕で。ボタン連打して、
決められた戦術で押し通せば、いつか勝てるんだよ。
そんなのさ、意味ないじゃん。そう思いませんか。

このゲームの話は一つの例でありまして、僕は至る所で「チョイ残し」をしてしまいます。
99まで物事を進めたら、100までいかずに、ブチッと終了。絶対に100まではいかない。
それが「チョイ残し症候群」なのです。多分、僕と同じ人はたくさんいると思うんですよ。

ペットボトルに入ったジュースを、あと一口、というところで飲むのを止めてみたり、
テスト勉強をするにも、あとこの1ページで終わり!というところで止めてみたり、
第一話から通しで観ていたドラマを、最終回の残り10分くらいのとこでお風呂に入りに行ったり…。


結論です。
チョイ残し症候群とは次の一言に表されると思います。それはつまり


  1. 2014/04/21(月) 21:11:31|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

僕たちは商品棚に並べられたミカンじゃない




行列に並ぶのがものすごく嫌いです。

長い長い列の最後尾に並び、ボーッとしながら、ひたすら何かを待っている。
並びながら何をするでもなく、何を話すでもなく、携帯を開き、携帯を閉じ、
時計を見、携帯を開き、すぐ携帯を閉じる。あぁ、まだ5分しか経っていない。
想像するだけで悪寒がしますよね。

例えば、初売りで人気の福袋を買おうとか、限定の電気製品を買おうとか、
今日は生活保護の受給日だから誰よりも早く受け取ってその足でジャグラー打ちに
行こうとか、開店前に並ぶ機会なんて人生でいくらでもあるじゃないですか。

でもね、行列の最後尾に立って、何もせず、口をあんぐりあけて待っている
だけってのはすごい負けた気がしてしょうがないんですよ。
敗者だ。俺たちは負けたんだ。あの戦争に負けてから、食料は配給制となり、
ひとり一つのお椀を持って、ひとすくいのスープを注いでもらうために毎日並ぶ。
そう考えていると、とても惨めな気持ちになるんですよね。

大体ね、そんな2時間も3時間も並ぶくらいなら、もっと他で面白い
ところ探すわ!って気になりますよ。3時間もあればなんでもできちゃうものね。
仙台から山形まで車で行って帰ってくるぐらいはできる。
脇目もふらず高速をぶっ飛ばしていけば往復できる。
このように3時間を有効的に使うことができるのです。


しかしながら、行列に並ぶことを避け続けていれば、
当然ながら行列の向こう側にある楽しみは、一生味わえないで終わってしまいます。

テレビで取り上げられるめちゃくちゃ美味しいラーメン屋とか、
隅田川の花火大会とか、ピエリ守山とか、行列に並ばなければ一度も行けない
場所があります。考えれば、これは大変なことですよ。

なるべく行列に並ばない人生を送りたい。ただ待っているだけで
無為に過ごす時間は、人生で1秒たりとも味わいたくない。
けれども、並ばなければその先にある発見が分からないまま終わる。
そんなのはイヤだ。まさに、行列と楽しみのジレンマ。


大学生の頃。

当時の僕は付き合っている女性がいまして、今はもう別れてしまったんですけども、
元交際相手の女とでも言いますか、そうするとなんだか事件性を帯びてくるので
その表現は差し控えたいんですけども、まぁ、彼女がいたんですよ。

その彼女とですね、地元の遊園地に遊びに行ったことがありました。
休日の遊園地ですからね、人も混んでおりまして、なかなかの盛況ぶりでした。

よっしゃ、1日フリーチケットも買ったし、色んな乗り物に乗るか!
ってなったんですけど、やっぱり僕ってば、並ぶの嫌いですからね。
「待ち1時間」とかあると、スルーしちゃいますからね。
外角高めのボール球ですよ。絶対に手は出さない。

しかし、休日の遊園地ですから、人気アトラクションはほとんど
「待ち2時間」とか平気であるわけ。それらを全部避けていくと、
最終的に残ったのは、マネキンが置いてあるだけのお化け屋敷と、
コーヒーカップで延々と回転するものしかなかった。

あそこもダメ、あそこも並んでる。あのジェットコースターにいたっては、
「待ち2時間半」ときた。話しにならないよ。仕方が無いからまた回転しよう!
となるわけ。

もうね、彼女もさすがにウンザリきちゃったようで、
「友達と来た方が良かった!」とか言って、プンスカ怒りだしてしまいます。

それで午前中でお帰りですよ。1日フリーチケットを買ったくせに、
お昼も食べずにバスでさよなら。しかも、コーヒーカップで回転しすぎたせいか、
バスに酔って吐き気がとまらない。
コーヒーよりもドス黒いのが出てくるかと思った。


そんな過去を教訓にしてね、これからは少しずつ、行列にも慣れていこうかな、
と思いました。行列と楽しみはワンセット。いっぱい待つからこそ、
楽しみもいっぱいもらえるんです。

ちなみに、最近風邪っぽかったので、今日のお昼に、近くの大学病院に行ってきました。
結果、待合室で長時間待たされて、本格派の風邪をもらってきました。
今は熱が39度あります。吐き気もあります。

こういうときは頭をボーッとさせながら、早く風邪菌がいなくなるのをじっと待つのみです。
現実に悪寒がしている。


  1. 2014/04/21(月) 21:07:57|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
前のページ 次のページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。