ドブ川見ながらカプチーノ

主張したいことはないです。

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もう絶対に行ってやらないんだから



通勤の朝、駅に行くと入り口の所で
「地球温暖化防止に署名お願いしますー」なんてボランティアしている
学生の集団に出くわした。

平日の朝から大変ご苦労なことであります。
きっと地球自然環境学科のゼミ生で、どこかの教授が4年生が喉から手が出るほど欲しがる単位を
ぶら下げて面倒な署名活動に学生を動員させているだけに違いありません。
それか本当に清い心で呼びかけているかの二択です。

お察しの通り、僕は女性には優しいが地球には優しくない男です。

デートの日は出かける前にヘアスプレーを丸ごと一本使うし、
冷え性の彼女のために夏でも30度でエアコン設定しているし、
自分の気分を高めるためだけにでドライブ用のガソリンはハイオクを入れています。

しかしながら、僕だって地球の一区画を間借りして生活している立場ですから、
女性の胸ばかりでなくこれからの地球環境について注視せねばと思っています。

けれども、僕一人が頑張ったところで、CO2の何が変わるの?と思うわけですよ。
僕が身長80メートルで体重が100トンあるゴジラだったら話は分かりますよ。
軽い気持ちで火を吐いたらダメだなぁとか、ビルだって安くないからあんまり踏みつけんとこ、
と注意しますわね。

やっぱり僕はただの一人の人間ですから、節水、節電、節呼吸、節人生を日々の目標とし、
そこに喜びを見出したとしても、やはり限界があるわけですよ。

僕が環境について真剣に考えたとしても、結局は何も変わらない。
自分が全体に影響を与えることは何もないのだ、そんな風に僕は思ってしまうわけです。



僕の近所に新しいリサイクルショップができまして、
ちょっくら冷やかしに行くことにしました。

なんでも、新中古品ばかりを扱っていて、それがだいぶ割り引いて売られているそうな。
ちょうど最近、僕のi-podが飼い犬のおしっこで溺死してしまったものですから、
さっそく代わりを買いに急ぐしかない!

そんなもんで、僕のレギュラー満タンの愛車でリサイクルショップに向かったわけです。
ちょこちょこっと店内を物色し、まぁこんなもんかと思って帰宅しようとした時、
もうね、びっくりしました。

駐車場の敷地が設計ミスなのかと思うくらい歪な形になっていて、どこに出口が通じているのか分からない。
まさに迷路状態。現代に蘇ったラビリンスウォール。

古代ギリシャ神話では誘拐された姫を救うため、生きて出た者はいないとされている
ラビリンスに勇者が出向き、最下層にいたミノタウルスに遭遇したが意外にも良いヤツで
高校の頃に聴いてた音楽の趣味も合うしですぐに意気投合、
次の野外ロックフェスには一緒に行こうぜと約束を取り付けてそのまま帰宅。
帰路で盗賊に捕らえられていた姫を無事に救出したという話がありますが、まさにそれです。

駐車場から車をどうやって出していいものやら全く分からないのですよ。
僕はもうこのまま帰れないんじゃないかと思った。チューリヒ呼ぼうかと思った。

もうね、駐車場から出るとこなんかでいちいち時間かけたくないじゃないですか。
GEOでエッチなDVDを借りる時でも、ササッとレジを終わらせて欲しいじゃないですか。
ベテランの手さばきで会計処理して欲しいじゃないですか。
できるだけそこは時間かけずに通過したい。それはバイトの鳥越君なんかに特に言いたい。

駐車場というのは本来ノンストレスであるべきで、お客は気持ちよく帰ることができる設計であるべきだ。
エッチなDVDを借りる客というものは、すぐに家に帰って自分の時間を持ちたいはずである。
そんな客の心を考えずに悠然とレジを打ち、申し込むと100名に当たる季節のキャンペーンを
マニュアル通りに持ちかけるバイトの鳥越君は全くダメだ。

そんなイロハのイである大原則に背を向けたのが、近所のリサイクルショップの駐車場。
本当に不親切。立て札も何もないから意味が分からない。道路沿いにのぼり旗を
いっぱい立てかける予算があるならば、一方通行用の「この先は通れません」の立て看板の一つでも
設置してほしいものである。

そんなこんなで、20分くらいの時間を使ってやっとの思いで駐車場から出られたんですけれども、
その時、思いましたね。

「この駐車場が原因で、客足が遠のいたと経営陣に実感させてやろう」って。
だから、僕はもうこのリサイクルショップには行きません。
店内は充実してたけど、この駐車場で気分を害した。もう、絶対い行かない。
経営陣が喜ぶのがシャクだから、お店行って一銭たりともお金を落とさないんだから!


プンスカしながら帰り道にふと思ったんですけど、地球温暖化に関しては
「自分一人がしたところで、全体が変わるわけないし」って感じだったのに、

今回のリサイクルショップに関しては、
「自分が店で少しでもお金を落とすことで、憎き経営陣全体を喜ばせてしまう」なんて思ってる。

気分によって自分が全体にもたらす影響って変わるもんだろうか。


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  1. 2014/06/24(火) 23:38:53|
  2. 日記
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日本人の無宗教が故の笑いのポテンシャルの高さ




「おもしろき、こともなき世をおもしろく」と言ったのは高杉晋作ですが、
これはどういう意味なのかというと、この世のあらゆる出来事にはそもそも意味なんてない。
人が勝手にその出来事に特別な意味を持たせているのだ、ということです。

例えば、休日にオシャレして出かけようとした時、急に雨が降ってきたらどうでしょうか。
「最悪だ。そういえば朝の占いで今日の運勢最悪といってたな。きっとそのせいだ」と思うでしょうか。
しかし、当たり前ですが雨自身は別に意味なんてなく、降るから降るのです。
別に運が悪いからとか、仏滅だからとか、全国の雨男が武道館に詰め掛けているからではありません。

日頃からいくら善い行いをしても最悪なタイミングで雨が降ることもあるし、
どんなに悪いことをしている人に対してでも天の助けはあるものです。
そんな意味なく降るだけの雨に対し「良い雨」なのか「悪い雨」なのかを決めるのは人のさじ加減一つです。

毎日が特に意味なく過ぎ行くものならば、どうせなら毎日に面白い意味を持たせようぜ、
と高杉晋作は言ったわけです。


ところで、なぜ人は人生の貴重な時間を犠牲にしてまで必死こいて勉強するのでしょうか。
立派に働くためでしょうか。ではなぜ働くのか?金を得るためでしょうか。
ではなぜ金を得る必要があるのか?生きるためでしょうか。
ではなぜ、生きるのか?

「なぜ生きるのか?」とっても難しい質問です。生涯をかけても答えられないかもしれない。
この問いに正面きって自信満々で答えられる人なんているのでしょうか。
います。いるんです。むしろ、世界のほとんどの人が答えられます。

キリスト教圏の人に聞けば「神のためだよ」と平気で答えるだろうし、
イスラム教圏の人は「天国に行くためさ」と答えるだろうし、仏教圏の人は「解脱するためだ」と答えるでしょう。

なぜかというと、宗教とはそもそも「人は○○のために生きる」が最初から明確に決められていて、
「○○のために、日頃からこうしなさい」と教えられるものだからです。

つまり、宗教を信じるということは、自分が何のために生きるのか?を真っ先に解決させられるのです。
ある種、これはとても便利な機能です。だって、人生に迷う必要がなくなるわけですから。

そう考えると、宗教もそんなに悪いもんじゃないなと思えますよね。
何か分からないけど、上の偉い人がそう言っているならきっと正しいのだろう、と思ってしまえば、
後は自分で悩まなくていいのですから。こんなに楽なことはありません。

いくら会社が資金繰りで苦しんでいても、苦しむべきは社長で、
従業員はただ現場を回すことに専念していればいいのです。
「社長がこの方針でいくと決めたならば、従業員がとやかく言うべきじゃない」と思えば、
定時が過ぎれば仕事を忘れてプライベートに集中することができる。社長に比べ、従業員は楽なもんです。
乱暴に言ってしまえば、宗教を信じるということは、会社の従業員になるようなものです。


そう考えると、日本人ってすごいな、と思うんですよ。
日本人は無宗教の民族だと言われています。これといった教典に基づいて日々を生きていない。
つまり、日本人はとっても便利な宗教を拒否してまで、「何のために生きるのかは自分の頭で考える」
という道を選んでいるわけです。いわば自分の足で立って歩くという骨太な民族なのですよ。
これは世界中から「日本人キモイ」と言われても仕方ありません。

「○○のために生きなさい」という宗教を捨てるのですから、「自分は何のために生きるのだろう?」と
人生に迷ってしまうのは日本人の宿命です。これは仕方がない。人生の節目節目で、日本人は悩む。
お金のためか?名声のためか?愛する人のためか?答えなんてそもそも用意されていません。
人生にはそもそも意味なんてない。自分が思う様に意味をつけてあげればいい。
こんなこと言われたらね、そりゃ何が何だか分からなくもなりますって。

それでも日本人は、悩まないよりは悩み続ける人生の方が良いと思って無宗教という道を選んでいる。
いやー、かっこいいですね。


一方では、宗教を持たないが故に人生に悩み続ける日本人は可哀想にも思えます。
無駄に迷って、損ばっかりしているようにも見える。

いえいえ、そんなことは決してありません。
実は無宗教であるということは、とんでもない強みを持っているのです。

簡単に言えば、キリスト教圏の人は、神をネタに漫才はできないですよね。
神がいくらボケ倒しても、頭をどついてツッコミを入れることができない。それはタブーだからです。

ですが、日本人は葬式でさえコントの題材にして笑い飛ばすことができる。
無宗教であるがためにタブーが少なく、扱える笑いの分野がめちゃくちゃ広いのです。

これは日本人にしかない強みですよ。あらゆる出来事を色んな視点から見ることができ、
ここから覗けばこの出来事は面白く見えるぞ!ということを発見すれば、
それを制限されること無く表現することができる。

宗教を持ってしまうと、「この出来事はこう見なさい」と固定されてしまいます。
そこが宗教の良い所なんだけど、その分、笑いビューポイントがいくつか減ってしまうことになる。

無宗教の立場に立てば、あらゆる出来事も自分の勝手で解釈することができます。
とある人が「これは最悪な雨だ!」と言っても、「いえ、これはこんな理由で最高の雨ですよ」と言うことができる。
そもそも出来事に意味なんてないのだから、全てを笑いに変換することもできるのです。

「おもしろき、こともなき世をおもしろく」と言った高杉晋作の言葉は、
無宗教な日本人だからこそ、自分次第で世界中の誰よりもこの世を楽しく過ごすことができるぞ!
と鋭く指摘したものなのかもしれません。



  1. 2014/06/09(月) 22:32:21|
  2. 日記
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僕の怒り新党



その1

舞台劇の終わりに、演者が全員出てきて手をつないでカーテンコールすることに腹が立ちます。

そこでは主人公から悪者から劇中で死んだ者から全員出てきて笑顔で挨拶するでしょ。あかんやん。
おい悪者、さっき主人公殺そうとしてたじゃん。なに笑顔でのうのうと出てきてんだよ。おいさっき死んだやつ。お前ハツラツと挨拶してんじゃないよ。全然元気じゃんか。

もうね、一気に気持ちが冷めるんですよ。夢の世界がポシャンと終わるような感じ。そっか、あんだけイガミあっていたけど、実際は演技だったんだね。舞台から一歩降りると、みんな仲良いんだね。ってなる。せっかくの余韻がとられた感じになる。

もっと言うと、劇によっては主人公の少年期、青年期、老年期と演者がそれぞれ変わる時があるでしょ。その3人が一同に会して手をつないでいたら、時空歪むよね。え?主人公が?いっぱいいる?と混乱する。カーテンコール、誰が得するんだろうね。これも演者側のオゴリなのではないだろうか。

悪者であればあるほど、「俺、めっちゃ主人公に悪いこと言ってたけど、あれ台本にあっただけだから!実際はそんなこと全然思ってないから!」とでも言いたげな笑顔みせるよね。プロの演者なら、観客から物投げられるくらい役に徹しろよと思う。


その2

吹奏楽の定期演奏会とかで、アンコール用に曲を別枠で設けていることに腹が立ちます。
アンコールとはそもそも、本編で演奏した曲の中で一番観客の反応がよかったものをもう一度演奏することでしょう?

それなのに、本編とはまた違った、アンコールありきで事前に準備していた曲を演奏するのは、演奏する側の傲慢でしかないと思います。全然違う曲を演奏するんだったら、最初から本編に組み込んでおけって話ですよ。

例えば、ゲオが期間限定でレンタルDVD一本50円のキャンペーンをやったとする。
その期間が終わった後に、客の反応が良かったために「好評につき、お客様のアンコールにお応えします!」と言って、レンタルCD一本100円のキャンペーンをやったとしたら、全然アンコールにお応えしてないやんってなるでしょ。同じことをしてこそのアンコールなのですよ。

しかしながら、同じ曲をもう一度演奏するというのもあまり芸がありません。
やるからには違ったテイストの曲を番外で演奏したい、という気持ちも分からんではない。演奏側の気持ちを汲みつつ、アンコールについてもう一歩進んで考えてみましょう。


話に聞くと、本当はアンコールに応えるつもりはなかったんだけど、観客のアンコールがあまりに熱いので、急遽演奏する予定になかった練習中の曲を楽譜無しで演奏するということもあるらしいです。これはいいですよ。演奏側と観客側が一体になっている感じがするよね。熱いライブですよ。

本編が全部終わった。演奏側も全力を出し切って舞台からはけた。だけど「まだ聴き足りない!お願い!もう一度聴かせて!」と観客が歓声をあげる。その熱い声に演奏側が心揺さぶられて「お前ら最高だぜ!仕方ねぇ、特別にもう一曲演奏してやるぜ!」そういった経緯でアンコールに違う曲をぶつけるのはアリですね。何も問題がない。

僕が問題にしているのは、「どうせあんたら、アンコールするんでしょ?」とでも言いたげに、舞台袖から再登場してきて、しれっとした顔で本編の延長のような曲を演奏する姿勢です。これはオゴリ高ぶっていますよ。お前らアンコールのために本編で余力残してんじゃないよと思う。

もっと言うと、フィギュアスケートのエキシビションも、ある種アンコール用に予め用意した曲を踊っていると言えなくてもない。けれども、ここが重要なのですが、エキシビションは上位入賞者達しか出られないわけですよ。つまり、己の力で勝ち取った末のエキシビション用の曲なのです。観客がどうこうじゃなく、自分たちが頑張ったから踊れるわけ。

そこにはオゴリは一切存在しない。「自分は勝てる。絶対勝つ」という信念のもと、エキシビション用の曲を用意する姿勢はとてもポジティブです。いやらしさがない。最後に楽しく踊れるように頑張ろうとすることは筋が通っています。

甲子園球児も、甲子園で勝った後に歌えるよう校歌を練習してたって、全然いやらしくないでしょ。むしろ、絶対校歌を歌うぞ!という強い気持ちでプレーしていて欲しいくらい。

そう考えるとですね、観客のアンコールありきで別枠に曲を用意していることはとても腹立つんですよ。なんだ、エキシビションのつもりなんか。いやいやいや、アンコールって礼儀みたいなもんで、どんな演奏でも最後には観客が必ずアンコールするでしょうよ。だったらそんなにカッコつけて違う曲を設けなくてもいいんでないの、となる。

結論です。
原則、アンコール用の曲を別枠で用意せず、アンコールを受けたら本編で反応が良かった曲をもう一度演奏する。例外として観客の熱い歓声に心揺さぶられた時だけ、特別に即興で違う曲を演奏する。一番最悪なのは、アンコールありきで先回りして曲を用意して演奏すること。演奏側は自意識過剰になったらいけません。



  1. 2014/06/01(日) 00:20:47|
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