ドブ川見ながらカプチーノ

主張したいことはないです。

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こんにちは親戚ちゃん こんにちは赤ちゃん



結婚をしました。今年の4月に。

高校生の時にマックでスマイルお持ち帰りを注文して、店員さんに空の袋に小さくニコちゃんマークを書かれて手渡された経験のある僕でも結婚はできるんです。良い世の中ですね。

「妻よ」「夫よ」と呼び合ってその違和感にくすぐったくなってワチャワチャと楽しんでいる新婚雰囲気が落ち着いた11月、来るべき時が来ました。親戚付き合いです。

もともと僕の家系はお祭り好きが多いので、何かあると親戚が集まって宴会が始まるのです。さらに11月には親戚が一同に会す大宴会が毎年開催されます。

今年で20回目を数えますが、参加人数は総勢40人。さながら、企業の忘年会のような力の入れようです。もちろん、余興もあります。考えてみてください。自分の両親と兄弟が見ている前で、ステージで女装してUFOを踊るんですよ。どうですか。簡単に引いちゃうでしょう。

子どもの頃からそのような愉快な親戚付き合いをしてきた僕ですが、一方、奥さんはというと全く親戚付き合いをしないで今までご成長なさってきたようです。覚えているのは、小学1年生の頃にお婆ちゃんの法事で親戚の顔をぼんやり眺めたくらい。それ以来、両親の兄弟と会ったことがないそうです。典型的な核家族。

言ってみれば、僕と奥さんの家庭環境は両極端もいいところ。開放的対閉鎖的。性格も全く違うのです。

ですから、奥さんに11月の親戚一同大宴会に連れて行くよと言うと、露骨に嫌な顔をされてしまいます。親戚ってなに?何で集まるの?誰か死んだの?という始末。これは困りました。

付き合っている内は別に親戚のことなんか考えなくても構いませんが、入籍してしまうと話は別です。日本の風習では昔から嫁は夫の家に入ると言いますが、どんなに嫌だとしても「こちらが僕の奥さんです」と親戚の皆さんにお披露目しないことには居心地が悪くって仕方ありません。

そんなものだから、奥さんに縄をつけて無理やり宴会場に連れてきてやりました。奥さんも立派な社会人ですから、愛想笑いの一つでもしていれば難なくやり過ごせるはず。そう僕は踏んだのです。

結果、大失敗。
奥さんのお披露目に失敗もクソもあるかと思いますが、認めましょう。惨敗です。帰りの電車でポツリと「私とあなたは出会うべきではなかったのかもしれない」とつぶやていました。僕は一言、「今の聞かなかったことにする」と返すのが精一杯。これは困りました。

何がどう失敗したのかというと、色々な原因はありますがその中の一つに、奥さんが「知らない人間とそれなりに楽しくやり過ごす」という技を持ち合わせていなかったことに尽きます。

簡単に言えばコミュニケーション能力の欠如なのですが、これはやはり一朝一夕では身に付かないものです。奥さんも少しはやれるだろうと思っていたらしいのですが、何も手が出ず何もできず、ただただ時間が過ぎていくのを待つしかなかったと言います。

これを聞いて僕は帰りの電車でぼんやり考えていました。嫌で嫌でたまらないのなら、親戚付き合いなんてやらなくていいじゃん、と。そしてもっと考えを巡らせます。そもそも、親戚付き合いって誰のためにやっているんだ?大人同士の自己満足のためか、家の近況を報告し合って無事を確認するためか、昔からやっているから慣習として何となくやっているのか。

そして一つの結論に辿り着きました。
親戚付き合いは子どものためにやっているのではないか。

僕は自慢じゃないですが、知らない人間と1時間は楽しくおしゃべりできます。その能力のルーツは、子どもの頃から参加し続けてきた親戚付き合いにあるのではと思うのです。よく知らないおじさん、おばさんと長い時間一緒にいて、「何歳になった?」「学校はどうだ?」とデリカシーもなくプライベートな内容を根掘り葉堀り探られる。時には「下の毛は生えたか?」と無礼な質問をする大人もいます。手荒いのです。

しかしそんな親戚付き合いをずっと経験していると、誰とでも一定の水準でお話ができるという能力を体得するに至るのです。コミュニケーション能力を養成する最高の環境であると言えます。

今回の親戚大宴会にも、参加者の半分くらいは子どもたちが占めていました。恐らく彼らも、これから会を重ねることで社会性を養い、微妙な人間関係を嗅ぎ分けてうまく世を渡っていく技を身に着けた大人に育っていくことでしょう。


さてそんなわけで話は元に戻りますが、親戚付き合いは子どものためにあるので、大人のためにあるわけではありません。したがって、奥さんが今後、何度も会に参加したとしても社会性を養うことができません。親戚付き合いが辛いな、という思いは、死ぬまで拭いきることができないのです。なんて希望のない話でしょうか。

そんな親戚付き合いをいくらか和らげてくれる方法はないものでしょうか。実は、一つだけあります。子どものお世話です。

自分の子どもをお世話して、立った、座った、泣いた、笑ったと子どもの一挙手一投足を実況しているだけで何となく間が持ちます。むしろこれしか手立てはありません。奥さんを救うには子どもをこしらえるしかないのです。

さぁ、結論はすでに出ました。
僕は腹をくくり、奥さんは腹を大きくするしかありません。
将来はマックでビックマックのバンズのみを注文するような子どもが生まれてきてくれればいいなと思います。



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  1. 2014/12/22(月) 17:54:32|
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今までモンハンというものに触れてこなかった25歳が始めてモンスターハンター4Gを手に取り100時間プレイした後に思ったこと



現実世界の人間には、2つの大原則があります。

1つ目は、人間は弱い動物であるということ。

人間は、虎のような鋭い爪や牙もなければ亀のような硬い甲羅もないし、ゴジラのように口から火炎を放出する能力もありません。

そんな弱い人間が、獰猛な動物がウヨウヨとうろつく大自然の中で暮らす事は不可能だったはずです。真っ先に狩られて食い物にされてしまうはず。それなのに、我々の祖先はそうはならなかった。なぜか。

その答えが二つ目ですが、人間は道具を使う動物です。

人間は考えました。虎の鋭い爪や牙で剣を作り、亀の硬い甲羅で鎧を作り、火炎を放出する器械を作れば対等に立ち向かえるのではないか、と。


モンスターハンターの世界では、まさにそのような大原則が源流にあります。どれだけモンスターを倒しても、人間それ自体は強くならない。人間を強くさせるのは装備だけなのです。自分より少し強いモンスターを狩り、その牙と毛皮で武器と防具を作る。それらを装備し、さらに強いモンスターを狩り、さらに強い武器と防具を作る。現実世界を地でいくようなコンセプトは発売当時としてはかなり画期的だったはずです。

長らく、日本のゲーム界にはドラクエやFFに代表されるような「レベルアップ」という概念が定着していました。モンスターを倒し、経験値を積めばレベルアップする。レベルアップすると、攻撃力があがる。守備力があがる。いやこれ、おかしいでしょ。

ゲーム終盤にさしかかると、主人公を裸にしても「てつのよろい」と同じだけの守備力がついているんですよ。序盤はあれだけ苦戦していたスライムの攻撃が、終盤の主人公の裸には傷もつけられないのですよ。こんなのっておかしいじゃない。

あのプロレスラーの力道山も、鍛え上げられた鋼の肉体を持っていたにも関わらず最期はなんでもない男にナイフで刺されて死んでいます。そりゃそうだ。どれだけ経験値を積んだところで現実の人間は弱い動物なのだから。

レベルアップして人間自身が強くなるのはゲームの中だけの話。ゲームと現実は違うのだ。幼いながらも当時の僕はどこかさめた気持ちを持ったままドラクエの冒険を進めていました。


そんな僕の気持ちを熱くさせてガッチリと心を掴んだのがモンスターハンターでした。現実世界の大原則をゲームの世界に持ってくるとここまで面白くなるのか!と感激してしまいました。

アクションゲームとRPGを単純に比較するのも気が引けるのですが、まぁ、聞いてください。レベルアップのある世界では、鍛え上げられた主人公達はまずザコ敵には負けないので戦闘に入っても何の緊張感もありません。コマンド決定ボタンをアホみたいな顔して押しているだけで経験地とお金が手に入ります。モンスターよりも圧倒的に主人公達の方が強いのです。

しかし、モンスターハンターの世界では、主人公はモンスターよりも圧倒的に弱い存在です。攻撃をあててもモンスターは突進をやめませんし、力勝負では絶対にかないません。そんな強大な相手を倒すにはどうすればいいのか?現実世界でも共通することですが、ひたすらカウンターを仕掛けるのです。

大振りな攻撃をした後は必ず隙が生まれます。その間隙を逃さず一太刀を入れる!攻撃に気づいたモンスターがこちらを振り返って攻撃を仕掛ける!その前に逃げる!モンスターが追撃を仕掛ける!それをかわしてまた一太刀!

この繰り返しでついにモンスターを狩ることができるのです。僕もですね、恐竜のようなデカいモンスターを命からがら狩ることができた時は「ヨッシャ!!」とガッツポーズしてしまいます。そして思うのです。僕達の祖先も、自分達よりもはるかに大きいマンモスをカウンターの末に狩ることができた時はこんな高揚感だったんだなぁ、と。


ゲームを購入してから3週間足らずで100時間もプレイしてしまいました。暇な時間は常にゲームしていたことになります。

僕の友達にモンハン好きな奴がいるのですが、このことを自慢したら
「俺は2週間で100時間だけどな」と言っていました。
確かによく見たらそいつの目の下にクッキリとクマができているし、目はうつろで顔の脂もギトギトしている。おまけにさっきから半笑いだ。
こいつ・・・人間じゃない!


  1. 2014/11/18(火) 23:14:25|
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自転車無双







昨日、駅前の駐輪場に停めてある僕の自転車を出そうとしたら、停めてあった他の自転車に当たって ガシャン ガシャン ガシャン と、ドミノ倒しのように10数台くらい倒してしまったんですよ。

よくドラマなんかでもそんなシーンありますけど、実際やってしまうと面倒くさいもんですね。何なんだよふざけんなよとブツクサ文句を垂れながら自転車たちを立て直して、やっとこさ帰路についたわけです。

そして、家でのんびりしてたんですけど、ふつふつと腹の底から湧き上がってきたんですよ。
「本当に俺は、倒した自転車たちを立て直す義務があったのか?」と。

だって考えてみてくださいよ。僕の自転車なんて駐輪場の奥のほうに追いやられてあって、出すための通路が他の自転車たちで埋まっているわけですよ。一分の隙もあけてなるものかと自転車が刺さるように停めてあるのです。東京マラソンのスタート地点ってこんなんだよな、と思えるほど自転車たちがワラワラと一箇所に密集している。

そんな状況で僕が自転車を取り出す時に他の自転車に当たったとて、誰に批判されます?
電撃イライラ棒じゃないんだから、少しくらい接触して倒してしまったとしても、それは密集するように停めた自転車の所有者が悪いと思いませんか。

まぁ確かに、僕にも過失がないわけではありません。きちんと逃げるための通路を確保しておけば済んだわけですから、直接僕が倒してしまった自転車に関しては立て直しますよ。

でもね、倒した自転車がさらに他の自転車を倒してしまった場合、それ以降の倒れた自転車については、僕の関知するところではありませんよね。僕が直接手を下した件は謝ります。でも、ドミノのように間接的に何台も自転車がバタバタ倒れていった場合、全ての責任は僕にあるのでしょうか?

例えば、僕が倒した自転車が他の自転車に当たってそれも倒し、さらに他の自転車に当たってそれも倒し、近くを通りかかった練習中のプロ野球選手が倒れてきた自転車の下敷きとなり選手生命が絶たれ、所属チームの楽天イーグルスが去年リーグ1位だったのが主力選手が抜けたことで今年は5位と低迷、責任をとって辞任した星野仙一に俺は謝罪文を書かなければならないのでしょうか?

思うんですけど、ドミノ倒しで一気に10台も自転車を倒してしまった場合、最初の1台だけ立て直せばあとは知らぬ存ぜぬで通しても良いと思うんですよね。

一個人が負える責任は無限ではない。どこかで因果関係が断絶されるもの。適当なところで見切っておいて、自分が納得できる地点を探せば良いのです。


そんなことを思いながら今日、いつものように駐輪場で自転車を取り出そうとしたら、先に来ていた中学生が他の自転車をドミノ倒しの要領でバタバタと倒していました。しかも僕の自転車も巻き込んでいるし!

ふざけんな!俺の自転車高いやつなんだぞ!お前のホームセンターで買った特売のママチャリとはワケが違うんだ!今すぐ賠償すべし!と憤慨していたら、中学生は知らぬ存ぜぬといった顔して自転車を取り出しすぐに帰ってしまいました。
後に残されたのは一面に倒れた自転車と、呆然とたたずむ僕。これじゃ僕が自転車を倒したみたいじゃないか。後から来た女子高生の目が痛い。

僕は泣きながら二日続けて無数の自転車を立て直した。

  1. 2014/10/06(月) 22:38:29|
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大人の小説だったら書けるんじゃないの





小説を書いてみようと思うんですよ。

最近、池井戸潤のルーズ・ヴェルトゲームという小説を読んでいるのですが、この本、ベタのお手本です。


世の中には子どもの小説と大人の小説があります。

子どもの小説というのは太宰治のような純文学というジャンルで、
「どうしてこんなに僕は不幸なんだ!あぁ、もう人生に絶望した!何もかもが嫌になった」とひたすら自分の境遇を嘆く内容のものです。

ドラえもんの、のび太もこれに似たようなことを言っていますね。
「僕は本当に何もできない、ノロマで、クズで、弱虫で・・・」といった感じ。
全体的に陰鬱な結末を迎えることが多い傾向にあります。

これに対して大人の小説というのは、不幸な境遇に身を置きつつも、仲間で乗り越えて、ハッピーエンドを迎える内容のものです。週刊少年ジャンプのマンガが主にこの傾向ですよね。少年ジャンプと謳いつつ、しっかりと挫折、苦労、達成を経て大人に成長していくマンガを載せる。まさに大人の小説です。

前者の小説はまさに書けるべき人にしか書けません。太宰治の人間失格に至っては、人生で堕落し続けた経験がなければ書けないような内容になっています。つまり、作者が本当にそう感じたり考えたりしない限り、筆が進んでいかないのです。

後者の小説は空想や妄想で足ります。大航海時代を経験しなくてもワンピースは書けます。大人の小説ですから、物語を盛り上げる挫折エピソードを挿入し、仲間と乗り越える理由をくっつければ形になるからです。
それが、ルフィの少年独自の悲しみや憤りだけを詰めた子どもの小説にしようとすると、これを書くのは難しいでしょう。21世紀の人間が、16世紀に生きた人間の嘆きを作り上げるのは無理があるからです。


そんなわけで、僕もある程度決まったルールに従えばそれなりの形になる大人の小説だったら書けるのではないかと思ったので、即席で作ってみようと思います。

テーマはなんでもいいです。じゃぁ、登山にしましょう。ちょうど今、テレビで富士山が映っていました。
ルールは、挫折→苦労→達成の流れを汲むこと。それのみです。



タイトル「富士山」


翔太は富士山に登りたかった。理由はややあるが、子どもの頃からの夢だったのだ。いつか富士山に登りたい。いつか、富士山の山頂で日本の形を眺めたい。翔太は高校を卒業後、すぐに手に職をつけて資金を貯めることにした。富士山を登る軍資金として。

しかし、父の正造はそれを許さなかった。
「バカは何でも高いところに上りたがる。登山をするモンはバカモンだ」
それが彼の口癖でもあった。

翔太と正造はいつも衝突した。登山について何も分からないくせに!
そう言って家を出たこともあった。その時、父が顔に悲しげな影を落としたことを翔太は見逃さなかった。

あるとき、正造が倒れた。
幸い大事には至らなかったが、病院でしばらくの安静が必要らしい。翔太は正造が病室で必要になる物を取ってくるため、初めて正造の部屋に入った。

正造の書斎を整理していると、翔太は驚いた。正造が若い頃に登山をした写真のアルバムが出てきたのだ。どれも古い写真ばかりだ。20代、正造は親友の浩助と一緒に日本の山を制覇していたらしい。そしてアルバムをめくっていると、最後のページに浩助からの手紙が挟まっていた。

「来年は富士山に挑戦しような」

しかし、いくら探しても、正造と浩助が登ったらしき富士山の写真は出てこなかった。


病室、翔太は正造にこの件について話した。すると、正造はポツリポツリと話し始めた。
「実は、俺が若い頃、お前のように登山が大好きだったんだ。親友の浩助を誘っては、山という山を登り尽くしていた。

そして30年前のあの日、俺と浩助は富士山に挑戦した。8合目まで行ったかな。あと少しで頂上だという時に、不意に足を滑らせた浩助は転落していった。その後、病院で手当を受けたが、あいつは亡くなった。俺がもっと注意していれば。俺のせいだったんだ。
何度も自分で自分を責めた。そして、二度と自分の身内を登山させまいと誓ったのだ」と。

翔太は言った。父さん、過去から逃げてばかりじゃだめだ。もう一度、富士山に登ろう。三ヵ月後は30年前の浩助の命日だ。その日、一緒に富士山に登って、墓参りをしよう。

正造は思った。今、患っているこの病も、元々はあの日の罪悪感から来ているのかも知れい。
正造は初めて、翔太の言うことに首を縦に振った。


三ヵ月後、翔太と正造は富士山に登った。そして、八合目に着いた。
30年経っても忘れもしない、あの場所。そこに行くと、一つの墓標が立っていた。
「吉田浩助 享年29歳」紛れも無く、彼の墓標だった。

翔太と正造が手を合わせていると、一人の女性がやってきた。
そして、正造に近づくなり「もしかして、中村正造さんですか?」と聞いてきた。

話を聞くと、女性は浩助の妻だという。正造は驚いた。そして、謝罪をした。
「申し訳ありませんでした。私のせいで、浩助を死なせてしまって。あの日から私、ずっと登山から離れていました。浩助も私を恨んでいることでしょう」

すると妻は震える正造の手を握って言った。
「そんなことはないのです。夫は病院で、私にこう言ったんです。
『正造に伝えてくれ。俺のせいで登山を諦めるな。俺が死んでもいつかきっと、富士山を登りきってくれ』と。
私はすぐにこのことを正造さんに伝えたかった。それが亡き夫の最後の言葉だったから。

でも、正造さんは私の前から姿を消してしまった。連絡をとる手段もなかった。だから私は、夫の命日に毎年ここまで墓参りすることにしたのです。そうすれば、正造さんもいつか心の整理がついた時に、夫の命日に墓参りに来てくれるだろうと思って」

それを聞いた正造は泣き崩れた。
すまなかった、と言って。

富士山の夜明け前の闇が正造の涙を優しく隠した。


END



どうですか、これ。なんすか、これ。
途中からちょっと正造に感情乗りすぎて翔太が空気になってしまいました。

こんなくだらん話考える暇があったらルーズ・ヴェルトゲームの続きを読み進めるとしますわ。

  1. 2014/09/23(火) 23:05:26|
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泣く子も黙る鬼のコミュ力




どうも、コミュニケーション能力の鬼、dattoです。
僕のコミュ力はメジャーリーグ並みでして、先日もメジャー球団ブルージェイズからの飲みの誘いを断ったばかりです。

高校の頃から僕のコミュ力は並大抵のものじゃないとは思っていましたが、仕事を始めてからその抜きん出た才能に気づき、自分でも驚いてしまいました。

コミュ力が高い人とは簡単に言えば、場の雰囲気をプラスの空気で充満させることができる人です。幼馴染が数人集まって楽しく語らうことは簡単ですが、それほどお互いのことをよく知らない人同士で楽しく語り合おうとするのはとても難しいものです。そこをどのように良い雰囲気を設計していくのか。どのような仕掛けを駆使してプラスの空気を焚くのか。それを場の誰よりも考える人がコミュ力が高い人なのです。

今回は仕事の飲み会の席で、ここを押さえればコミュ力が高くなる2つのポイントを紹介します。誰しもが陥りがちなミスを回避して、着実にプラスの空気を作っていきましょう。


ケース1
【先輩が、自分がいかにパチンコが好きかを語り出した】

設定としては、自分はパチンコが嫌いだということです。パチンコなんてお金をドブに捨てるようなもんだし、貴重な休日にあんなうるさい場所に行っていられるか、と心の中で思っているような状態です。

そんな時、先輩が「君はパチンコやらないのか?」と聞いてきたら、どう返せば一番いいのでしょうか?


やってしまいがちなのが、それ待ってましたとばかりに、パチンコがもたらす害悪をとうとうとその場で語ってしまうことです。これはアウトです。ゲッツーです。6-4-3の併殺打です。

どうしても賛成派と反対派で対立してしまうと、ピリピリした雰囲気になってしまいます。しかし、自分の立場を変えて相手になびくのも何だか癪に障ります。自分の立場を守りつつ、反対側の相手にどう対応すればスッキリするのか?

僕がいつも使う言い回しは、
「自分には向かないと思うんですよね。あまりピンとこないのですよ」
これの汎用性に優れている所は、自分の立場を保持しつつ、相手の立場を一切傷つけない点です。

「パチンコするとお金が無くなる」「時間の無駄だ」などという客観的事実に基づいて反論すると亀裂が生じずにはいられません。ヘタすると相手の気分を害することにもなります。
しかし、「パチンコって何となく自分の性に合わないと気がする」という、あくまで主観的に反論すると、相手は何も言えません。だってそう思っちゃったんだからしょうがない。相手も「まぁ、いっか」となる。

相手に反論する時は、できるだけ主観的な理由で応えましょう。根拠に基づいて反論すれば理論的ですが、コミュ力が高いとはいえません。


ケース2
【40代女性が、ホラ、あたしってオバサンじゃない?と言い出した】

ここの争点は簡単です。どう相槌を打つのか?
会話の流れで「ハイ」「ウン」「そうですね」と普通に相槌を打つと「オイ」とオバサンから怒られてしまいます。

しかしながら、「そんなことないでっすてばー!お若いですよー!」と返すのもコザムイ感じがしますね。どんな相槌が適当なのでしょうか。

正解は一つしかありません。「んー…?」これです。
最後の「?」がポイント。「えー?」のニュアンスで、「んー…?」と言いましょう。

この相槌がもたらす効果の1つは、「あなたはオバサンには見えないけど?」というニュアンスになること。その他には、「よく聞き取れなかったけど?」という逃げのニュアンスにもなるのです。

前者の意味で相手に伝わっても相手の気分を害することにはなりません。
後者の意味で相手に伝わっても、「聞こえなかったのかな?」とスルーされてしまえばおしまいです。しかし、「だからー、私はもうオバさんでしょ?」とさらに追い打ちをかけてきたらどうすればいいのか?
その時は、「そんなことないでっすてばー!」と大袈裟にギャグっぽく言いましょう。そうすれば相手も「ウソばっかし!」と笑ってくれます。どう転んでも寒い感じにはならないのです。


普段から言い回しの上手い人をよく観察していると、どうしてこんなフレーズが出てくるんだろう?と疑問に思うことがあります。しかし、家に帰ってよく考えてみると、なるほど、色んな状況に対応したバランスの取れた言い回しであると気づかされることが多々あります。

僕はそんなバランス感覚に優れたフレーズを書きとめておくことが好きなので、暇を見てはこれからちょこちょこ紹介していこうと思います。

次回は葬儀場で役立つコミュ力の高いとっさのお悔やみフレーズ特集です。
心して待つように。

  1. 2014/09/04(木) 22:34:43|
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